春服のタグを切れないまま、クローゼットで寝かせている私へ

新しい服を買ったのに、なぜか着られない日があります
春になると、少しだけ自分を変えたくなります。
冬の重たいコートをしまって、クローゼットの奥から薄手の服を出して、去年より少し明るい色を選びたくなる季節です。
今日、2026年4月28日は、二十四節気でいうと「穀雨」の時期です。
春の雨が土をやわらかくして、草花を育てるころです。
もうすぐ八十八夜も近づいてきて、空気の中に初夏の気配が少しずつ混じってきます。
そんな季節なのに、私の部屋にはまだ、タグがついたままの春服があります。
買ったときは、ちゃんと嬉しかったのです。
試着室の鏡の前で、少しだけ背筋が伸びました。
「これ着てカフェ行きたいな」とか、「これなら婚活の予定にも着ていけるかも」とか、勝手に未来の私まで想像しました。
なのに家に帰ると、なぜかすぐにタグを切れません。
紙袋から出して、ハンガーにかけて、しばらく眺めて、そして思うのです。
「本当にこれ、私に似合うのかな」と。
お店では似合って見えた服が、自分の部屋の蛍光灯の下では急によそよそしく見えることがあります。
あの試着室の魔法は何だったのでしょうか。
店員さんの「すごくお似合いです」の言葉も、家に帰ると少し遠く感じます。
タグを切るという行為は、ただの作業に見えて、実は小さな決意です。
もう返品しない。
もう迷わない。
この服を、私のものにする。
そういう宣言みたいで、少し怖いのです。
たかが服なのに、です。
でも、たかが服に迷う日ほど、心が疲れている気がします。
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タグがついた服には、まだ失敗していない感じがあります。
まだ汚していない。
まだ似合わないと決まっていない。
まだ誰にも見られていない。
まだ「買ったのに着てない服」ではなく、「これから着る予定の服」でいられます。
この“予定のまま”の感じが、妙に心地いいのです。
着てしまえば、現実になります。
思ったより太って見えるかもしれません。
会社で誰にも気づかれないかもしれません。
デートで相手に何も言われないかもしれません。
あるいは、褒められても素直に受け取れないかもしれません。
30代になると、服選びはただの買い物ではなくなってきます。
若く見せたいわけじゃないけれど、老けて見えるのも嫌です。
頑張りすぎたくないけれど、手抜きに見えるのも嫌です。
流行を追いかけたいわけじゃないけれど、古く見えるのも少し怖いです。
その結果、服のタグひとつに、妙な緊張感が生まれます。
「この服を着る私は、ちゃんと今の私に合っているのかな」
そんな問いが、ハサミを持つ手を止めます。
しかも最近は、頑張りすぎない暮らしが素敵に見える時代です。
無理をしない。
盛りすぎない。
自然体でいる。
その言葉は優しいのに、時々、自然体でいることすら難しく感じます。
自然体って、どこまでが自然なのでしょうか。
寝癖のままコンビニへ行く私は自然体です。
でも、それをブログに書けるように整えた瞬間、少しだけ演出になります。
新しい服も同じです。
「ありのままの私でいたい」と思いながら、「でも少しは可愛く見られたい」とも思います。
その矛盾を、タグが静かにぶら下げている気がするのです。
そして私は、タグを切らずに着て外へ出ました
ある朝、私は少し寝坊しました。
いつものようにスマホを見すぎた翌朝です。
洗濯物はたたんでいないし、メイクも最低限です。
でも、その日はどうしても新しい服を着たくなりました。
春の雨上がりで、道の端に小さな水たまりが残っていました。
空気がやわらかくて、今日は何かを変えてもいい気がしました。
私はクローゼットから、タグ付きの春服を取りました。
ハサミを探しました。
でも見つかりませんでした。
正確に言うと、探す気力がありませんでした。
だから私は、そのまま着ました。
タグを内側に隠せば大丈夫だと思ったのです。
大人としてどうなのか、という声が頭の中でしました。
でも、私はその声に小さく返しました。
「今日はもう、これでいいです」と。
駅まで歩いて、電車に乗って、会社の近くのコンビニでコーヒーを買いました。
誰にも気づかれていないと思っていました。
ところが、レジ横の鏡に映った自分を見て、固まりました。
タグが、首の後ろから見事に出ていました。
しかも値札まで、ひらひらしていました。
一瞬、終わったと思いました。
私は静かに後ろを向き、壁側に寄りました。
でも、そのとき後ろに並んでいた女性が、ふっと笑って言いました。
「私もこの前、それやりました」
その言葉が、なぜかとても優しかったのです。
恥ずかしいのに、救われました。
完璧に整えた私ではなく、タグを出したまま慌てている私に、誰かが少し笑ってくれた。
それは、ばかにされた笑いではなく、「あるよね」という笑いでした。
私はその場でタグを切れませんでした。
ハサミもないし、勇気もなかったからです。
でも、その日一日、その服を着て過ごしました。
首の後ろのタグを何度も確認しながら、変に背筋を伸ばして歩きました。
そして夕方、帰宅してからやっとタグを切りました。
その瞬間、少しだけ思いました。
この服は、今日ようやく私のものになったのだと。
買った日ではありません。
タグを切った瞬間でもありません。
恥ずかしいまま外に出て、それでも一日を終えたあとに、やっと私の服になったのです。
びっくりすることに、私は次の日、その服をまた着ました。
今度はタグなしで。
でも昨日より、少しだけ堂々としていました。
新しい服が似合うかどうかなんて、たぶん最初から決まっていないのです。
着て、失敗して、ちょっと恥をかいて、それでも生活の中に混ぜていくうちに、少しずつ似合ってくるのかもしれません。
タグを切れないのは、優柔不断だからではありません。
未来の自分を、まだ少し怖がっているだけです。
そして、タグが出たまま外に出てしまう日があっても、人生は意外と何も壊れません。
むしろ、そんな日のほうが、誰かの記憶に少しだけ残ったりします。
春は、ちゃんとした始まりだけの季節ではないのかもしれません。
少し失敗したまま始まる日もあります。
値札を揺らしながら始まる朝もあります。
それでも、穀雨の雨が土を育てるように、恥ずかしかった一日も、あとから私を少しだけ育ててくれるのだと思います。
だから今日も、クローゼットにタグ付きの服がある人へ。
無理に切らなくても大丈夫です。
でも、いつか着てみても大丈夫です。
タグを切る勇気がなくても、先に外へ出てしまえば、案外そのあとに心が追いついてきます。
そしてもしかすると、その服より先に変わるのは、あなたのほうかもしれません。






