玄関に置いた段ボールから、土の匂いがした朝

朝7時18分、まだ部屋のカーテンを半分しか開けていないのに、インターホンだけが妙に元気よく鳴って、私は片方だけ靴下を履いたまま玄関に出ました。
寝起きの顔で宅配の人に「ありがとうございます」と言った声が、自分でもびっくりするくらいカサカサで、あ、昨日また水分をお茶でごまかしたな、と小さく反省しました。
届いた段ボールをキッチンまで運ぶと、ほんの少しだけ土っぽい匂いがして、スーパーの袋とは違う、なんというか「ちゃんと誰かの畑から来ました」みたいな顔をしていて、私はまだ何も作っていないのに、少しだけ生活が整った人みたいな気分になってしまいました。
らでぃっしゅぼーや、名前は前から知っていました。
有機野菜とか、特別栽培野菜とか、添加物をできるだけ控えた食材とか、そういう言葉を見るたびに、いいなあと思いながら、同時に「私、そこまで丁寧に暮らせる女でしたっけ」と心の中で自分にツッコミを入れていました。
冷蔵庫の奥でしなびた小松菜を見るたび、私は少しだけ負けた気がしていた
一人暮らしの冷蔵庫って、たまに自分の本音がそのまま入っている気がします。
ドアポケットには開封済みのドレッシングが3本あって、チューブのしょうがはなぜか2本あって、野菜室には、使うつもりで買った小松菜が少しだけ斜めに倒れていて、見るたびに「ごめん、今日も無理だった」と声をかけたくなる夜があります。
仕事帰りのスーパーって、戦場というほどではないけれど、地味に心を削ってくる場所かもしれません。
18時42分、照明が明るすぎる店内で、かごを持ちながら野菜売り場の前に立って、キャベツ半玉にするか、カット野菜に逃げるか、いやでもカット野菜ってちょっと割高だよね、じゃあもやしでいいか、でもまたもやし炒めか、みたいな会議をひとりで開いていると、なんだか自分の人生まで割引シール待ちしているような気分になる日があります。
婚活アプリで「得意料理は?」と聞かれたときに、素直に「納豆ごはんの混ぜ加減です」と返したくなるけれど、さすがにそれは初対面で出すカードではない気がして、「簡単な和食なら作ります」と少しだけ盛る私がいます。
小さな恥です。
本当は、ちゃんとした人に見られたい気持ちがあるんです。
でも、家に帰るとバッグを床に置いたまま、メイクを落とす前にスマホを開いて、気づいたらおすすめ動画を3本見ていて、キッチンに立つころにはもうHPが赤ゲージになっています。
そんな私が、らでぃっしゅぼーやのページを見ていたのは、たぶん野菜を買いたかっただけではなくて、自分の生活に「まだ間に合う感じ」が欲しかったのかもしれません。
箱を開けた瞬間だけ、私は料理上手な人のふりができる
段ボールを開けるときって、少しだけイベント感があります。
通販で服を買ったときとは違って、食材の箱は華やかではないのに、なぜか部屋の空気が変わります。
葉っぱの緑が見えて、丸い野菜がごろんと入っていて、袋の端に水滴がついていて、それを見た瞬間だけ、私は「今夜は味噌汁を作る女」になります。
たぶん、ここが少し危ないところです。
箱を開けた瞬間の私は、もう頭の中で木のまな板を出して、湯気の出る鍋を想像して、白い器に野菜を盛って、写真まで撮る予定になっています。
でも現実の私は、まな板を洗う前にシンクの中のコップを片づけないといけないし、鍋のフタはなぜか別の棚に入っているし、味噌はあるけれど、だしを切らしている可能性が高いです。
あるあるすぎて、書きながら耳が痛いです。
アメブロで食材宅配の体験談を読んでいると、「届いた野菜が新鮮でおいしかった」「買い物の負担が減った」「一人暮らしだと食材の量が難しい」みたいな声が出ていて、わかる、そこなんですよね、と画面に向かってうなずいてしまいました。
一人暮らしの食事って、料理そのものより、買う量と気力の調整のほうが難しいです。
白菜ひと玉を前にしたときの圧、あれはなかなかのものです。
恋愛でも仕事でも「ちょうどいい距離感」が難しいのに、野菜にまで距離感を試されるとは思っていませんでした。
丁寧な暮らしに憧れるくせに、包丁を出すだけで少し疲れる

「丁寧な暮らし」って言葉、きれいですよね。
朝に白湯を飲んで、木のトレーに朝ごはんを並べて、観葉植物に水をあげて、夜はスマホを遠くに置いて本を読む、みたいな映像がすぐ浮かびます。
でも私の朝は、白湯を飲む前にスマホの通知を見て、観葉植物に水をあげる前に自分の前髪をどうにかして、朝ごはんは立ったままヨーグルトを食べて終わる日もあります。
それなのに、なぜか野菜宅配を見ていると、私もまだそっち側に行ける気がしてしまうんです。
これ、ちょっとした願望の買い物かもしれません。
野菜を買っているようで、本当は「ちゃんとした私」を少しだけ買いたくなっているのかもしれません。
友達にそんなことを言ったら、「いや、野菜は野菜でしょ」と笑われそうです。
たしかにそうです。
にんじんは私の自己肯定感を直接上げてはくれないし、ブロッコリーが婚活の返信を代わりに考えてくれるわけでもありません。
それでも、冷蔵庫にちゃんとした食材がある夜は、少しだけ自分を雑に扱いにくくなる気がします。
カップ麺でもいい夜はあります。
むしろ、カップ麺に救われた夜の数なら、私はわりと胸を張れます。
でも、袋の中の小さなトマトを洗って、そのままひとつ口に入れたとき、皮がぷちっとして、少し青い匂いがして、あ、今日の私はまだ味がわかるんだな、と思う瞬間があります。
それだけで十分な日もあります。
きれいになりたいより、ちゃんとお腹を空かせたい日がある
美容の仕事をしていたころ、お客様に「食生活も肌に出ますよね」と言われることがありました。
そのたびに私は、笑顔で「そうですね」と返しながら、昨日の夜ごはんがポテトチップスとアイスだったことを心の奥にそっと隠していました。
接客の現場では、きれいな言葉を使います。
保湿、巡り、透明感、内側からのケア。
どれも嫌いではないし、むしろ好きです。
でも、自分の部屋に帰ったあとの私は、透明感より洗濯物の山のほうが現実味があります。
お風呂に入る前に床に座り込んで、今日あの言い方よくなかったかな、とか、婚活の人に送った返信ちょっと重かったかな、とか、どうでもいいようでどうでもよくないことを反芻しているうちに、空腹なのか疲労なのかよくわからなくなる夜があります。
そういうとき、食べたいものがわからないんです。
お腹は空いているのに、何を食べたいか聞かれると黙ってしまう感じ。
人に言えない感情ですが、誰かに「今日のあなたにはこれでいいよ」と決めてほしくなる日があります。
らでぃっしゅぼーやの箱に入っている野菜を見たとき、私は少しだけ、その決めてもらえる感じに安心したのかもしれません。
全部自分で選ばなくていい。
全部自分で正解を出さなくていい。
届いたものを見て、じゃあ今日はこれを切ってみるか、くらいの弱い始まりでいいなら、私にもできる日がありそうです。
ただ、ここで急に「だから野菜宅配は最高です」と言い切るほど、私はまだ素直ではありません。
送料も気になるし、使い切れるかも気になるし、冷蔵庫の容量だって現実的な問題です。
一人暮らしの冷蔵庫に、夢と野菜を詰めすぎると、ドアが閉まらなくなることがあります。
比喩ではなく、本当に。
それでも、忙しい日に買い物へ行かなくていい選択肢があることや、産地や作り手のことが見える食材を選べることは、少しだけ心の置き場所になるかもしれません。
自分で全部をがんばるのではなく、誰かの手を通って届いたものを受け取る。
それって、思っていたより悪くないです。
後半に書くことではないのかもしれませんが、私はその日、届いた野菜で立派な料理を作りませんでした。
映えるサラダも作っていません。
味噌汁も結局、だしを切らしていて断念しました。
私がしたことは、届いたきゅうりを洗って、キッチンペーパーで雑に拭いて、塩をつけてそのままかじっただけです。
しかも立ったまま。
丁寧な暮らしの入口で、いきなり立ち食いです。
でも、そのきゅうりが思っていたよりずっとおいしくて、私は誰もいないキッチンで小さく笑ってしまいました。
「え、これでいいの?」と声に出ました。
たぶん、これが今日いちばん裏切られたところです。
私は、野菜宅配を始めたら自分が少しきれいに変わると思っていました。
料理上手になって、肌も整って、婚活のプロフィールに書けるような生活感が手に入る気がしていました。
でも実際に変わったのは、私の生活ではなく、きゅうりを立ち食いしている自分をそこまで嫌じゃないと思えた、その一瞬だけでした。
冷蔵庫にはまだ、使い道を決めていない野菜が残っています。
明日ちゃんと料理するかもしれないし、また塩をつけて終わるかもしれません。
どちらでも、たぶん少しだけ生活は続いていきます。
野菜を選ぶことは、自分を変えることなのか、それとも変わらない自分を少しだけ許すことなのか。
段ボールの底に残った葉っぱのかけらを見ながら、まだ答えを出さないまま、私は冷蔵庫のドアを閉めました。






