アフターピルを検索した朝、冷蔵庫の麦茶だけがやけに普通だった

朝の6時47分、カーテンの隙間から入った白っぽい光が、脱ぎっぱなしのカーディガンと床に落ちたヘアゴムを照らしていました。冷蔵庫を開けると、昨夜つくった麦茶と半分残った豆腐が見えて、世界は何もなかったみたいに普通で、その普通さが少し腹立たしかったです。
スマホの検索窓には「アフターピル 何時間以内」「アフターピル 副作用」「アフターピル 親にバレる」が並んでいて、30歳にもなって検索履歴が中学生みたい、と自分にツッコミを入れたものの、笑えるほど余裕はありませんでした。
昨夜のことを思い出そうとすると、細かい部分だけが妙に鮮明で、彼がコンビニで買った炭酸水のラベルとか、帰り際に「また連絡するね」と言った声の軽さとか、そういうどうでもいいものばかり浮かんできます。
肝心なことは、何度思い返しても輪郭がぼやけていました。
「大丈夫だと思う」が、朝になると急に頼りなくなる
「たぶん大丈夫だよ」
昨夜、彼はそう言いました。
私も「うん、まあ、大丈夫かな」と返しました。
大丈夫という言葉を二人で重ねれば、薄い毛布くらいにはなると思っていたのかもしれません。でも朝になったら、その毛布は足元まで届いていなくて、私はひとりで膝を抱えるような気持ちになっていました。
生理管理アプリを開き、閉じて、また開きました。排卵予定日の丸印を見ながら、予定って書いてあるし、予定は予定だし、そもそもアプリが私の体内を見ているわけじゃないし、と頭の中で誰かがずっとしゃべっています。
彼に「やっぱり不安かも」と送ろうとして、文字を打っては消しました。
不安“かも”じゃない。
かなり不安。
なのに、かなり不安です、と送ると重い女みたいな気がして、こんなときまで感じのいい女性でいようとしている自分に少し引きました。妊娠するかもしれないという場面で、好感度の管理までしている場合ではないのに。
結局、「朝からごめん、アフターピルって飲んだほうがいいかな」と送りました。
既読はつきませんでした。
6時59分。
7時12分。
7時26分。
普段なら気にしない十数分が、こういう朝には妙に長いです。洗面所で歯を磨きながらスマホを持ち、泡だらけの口で画面を確認する自分が鏡に映っていて、何をしているんだろうと思いました。
「飲んだほうがいいかな」じゃなくて、私はたぶん、「一緒に心配してほしい」と言いたかったのだと思います。
でも、そう書くのはもっと恥ずかしかったです。
アフターピルは、避妊に失敗した可能性があるとき、性交後できるだけ早く服用する緊急避妊薬で、レボノルゲストレル製剤は72時間以内の服用が基本とされています。時間が関係する薬だと知った瞬間、迷っている時間そのものが減点されていくようで、時計を見るたびに責められている気がしました。
病院に電話する。
オンライン診療を探す。
薬局を調べる。
やることは検索結果にきれいに並んでいるのに、指だけが動かなくなることってありますよね。
風邪なら「熱が出ました」と言えるのに、婦人科へ電話して「避妊に失敗したかもしれなくて」と話すだけで、どうしてこんなに喉が細くなるんでしょう。
誰かに聞かれているわけでもないのに、部屋の中で声を小さくしていました。
受付の女性の声が、思ったより普通だった
8時を過ぎて、近くの婦人科に電話しました。
呼び出し音が鳴っている間、切ってしまおうかと思いました。今日仕事だし、午前中は予定があるし、もしかしたら何も起きないかもしれないし、こんなことで受診するのは大げさかもしれないし。
“こんなこと”と言った自分に、また少し腹が立ちました。
電話に出た女性は、「はい、どうされましたか」と、拍子抜けするほど普通の声でした。
私は小声で事情を話し、途中で言葉が詰まりました。責められるかもしれない、呆れられるかもしれない、もう少し気をつけてくださいねと言われるかもしれない。勝手にそんな場面を想像していたのですが、返ってきたのは「最後の性交から何時間くらいですか」という確認でした。
それだけでした。
年齢を聞かれ、時間を聞かれ、来院できる時間を聞かれました。
私の人格については何も聞かれませんでした。
それが少し救いでした。
電車に乗るために家を出ると、向かいの部屋の人がゴミ袋を持って出てきて、「おはようございます」と笑いました。私も反射的に「おはようございます」と返しました。
ちゃんと挨拶できる。
髪もとかした。
眉毛も描いた。
でも頭の中は、妊娠していたらどうしよう、薬が間に合わなかったらどうしよう、彼はまだ寝ているのかな、という言葉でいっぱいでした。
世の中には、外から見えない朝がたくさんあるんだろうなと思いました。
電車の中で、ベビーカーを押した女性が乗ってきました。こういう日に限って、と一瞬思ってしまい、すぐにそんな自分を嫌いになりました。
赤ちゃんが悪いわけではない。
そのお母さんも悪くない。
私も、たぶん悪い人ではない。
でも「悪くない」と言ってもらうだけで落ち着けるほど、気持ちは単純ではありませんでした。
ちゃんと避妊したつもりだった。
確認もしたつもりだった。
それでも不安になった。
この“つもり”が、あとから自分をいちばん責めてきます。
診察室で先生に説明するとき、私はなぜか、彼との関係まで簡潔に整えようとしていました。
「付き合っている人で」
本当は、付き合っていると言い切れるほどでもない。
「お互い結婚も考えていて」
そこまで話したことはない。
自分でも、何を守ろうとしているのかわかりませんでした。
たぶん私は、軽率な女性に見られたくなかったのだと思います。
先生は、そんな私の小さな見栄には気づいていたかもしれないし、気づいていなかったかもしれません。淡々と薬の説明をして、服用後に出血の時期がずれたり、吐き気や頭痛などが出たりすることがあると話してくれました。
薬を飲めば、その場で結果がわかるわけではないこと。
服用から3週間後を目安に妊娠検査薬を使うか、医療機関で妊娠の有無を確認すること。
説明は短かったのに、「3週間」という言葉だけがやけに長く残りました。
3週間。
カレンダーを頭の中で数えました。
その間に仕事もするし、スーパーにも行くし、友達とランチの約束もあります。普通の日を21日分こなしながら、心の片隅では結果を待つことになるんだ、と気づきました。
薬を受け取ったとき、小さな錠剤を見て、もっと大きいものを想像していたと思いました。
この小ささに、私は今日の不安を全部預けるのか。
そう思うと頼もしいような、頼りないような、不思議な感じでした。
彼から届いた「ごめん寝てた」に、安心した自分が嫌だった
薬を飲んでから、彼から返信が来ました。
「ごめん寝てた」
「大丈夫?」
「お金払うよ」
画面を見た瞬間、少し安心しました。
そして、その安心に自分で傷つきました。
お金を払ってくれるから優しい、連絡が来たから大事にされている、そういう採点を始めてしまう自分が嫌でした。本当は昨夜の時点で一緒に考えてほしかったし、朝の十数分をひとりで数えたくなかったのに、返信が来ただけで「よかった」と思ってしまいました。
私はたぶん、薬のことだけで不安だったわけではありません。
この人と何かあったとき、私はひとりになるのか。
困ったときに、私ばかり検索して電話して予定を変えるのか。
そういうことまで、白い錠剤の横から急に見えてきました。
「もう飲んだよ。費用は半分お願いしてもいい?」
そう送りました。
本当は全額出してほしい気持ちもありました。
私の体に起きることなのに、半分でいいと言う自分は物分かりがよすぎるのかもしれない。でも全額お願いすると、相手を責めているみたいで言えませんでした。
こういう場面でも私は、請求書をきれいに折半するように感情を半分にしようとします。
私の不安、50パーセント。
彼の責任、50パーセント。
そんなふうに分けられたら楽なのに、体の中にある不安は全部こちら側にありました。
彼からは「もちろん」と返ってきました。
スタンプもついていました。
いつもならかわいいと思う犬のスタンプが、その日は少しだけ腹立たしかったです。
犬に罪はないんですけどね。
午後、仕事をしながら何度も体調を確認しました。
ちょっと気持ち悪い気がする。
いや、朝から何も食べていないからかも。
頭が重い。
これは寝不足かもしれない。
お腹が痛い。
さっき飲んだアイスコーヒーのせいかもしれない。
体の感覚をひとつずつ拾っては、薬の副作用か、妊娠の兆候か、ただの気のせいかと名前をつけようとしました。検索すればするほど、どの症状も自分に当てはまるように見えてきます。
「アフターピル 腹痛」
「アフターピル 出血いつ」
「アフターピル 失敗した人」
検索欄は、私が口に出せない言葉を全部知っていました。
失敗した人、という言い方にも引っかかりました。
薬が効かなかったという意味なのに、自分という人間が失敗したみたいに読めてしまうからです。
夜、友達から「今度のカフェここどう?」と写真が送られてきました。白いクリームがのったパンケーキを見て、私は「かわいい、行きたい」と返しました。
その返信を打ちながら、私、今こんな普通の会話をしていいんだっけ、と思いました。
不安なとき、人はずっと不安そうな顔をしていなければいけないような気がします。でも実際は、パンケーキを見れば少し食べたくなるし、洗濯物が乾けば取り込むし、動画を見て一瞬笑ったりもします。
そのたびに、薄情な気がしました。
誰に対して薄情なのかは、よくわかりません。
「怖かったのは妊娠だけ」と言えば、話はきれいだった
数日後、彼と会いました。
彼は会ってすぐ「体調どう?」と聞き、私は「まあ普通」と答えました。
駅前の居酒屋は金曜日で混んでいて、隣の席では誕生日らしい女の子が小さなケーキを前に写真を撮っていました。店員さんが「おめでとうございます」と言い、みんなが拍手して、私もつられて少し笑いました。
彼は費用の半分を送金してくれました。
「ほんとごめんね」とも言いました。
私は「もういいよ」と返しました。
ぜんぜん、もうよくなかったです。
薬を飲んだことも、結果を待っていることも、朝ひとりで病院を探したことも、何かあったらどうするかをまだ話していないことも、どれも終わっていませんでした。
でも店内はにぎやかで、焼き鳥は冷めていくし、ここで重い話を始めたら面倒な女になるような気がして、私はレモンサワーの氷をストローでくるくる回していました。
「もし妊娠してたら、どうしてた?」
気づいたら聞いていました。
彼は一瞬だけ黙って、「そのときはちゃんと話し合うよ」と言いました。
ちゃんと。
話し合う。
よくできた言葉なのに、何も見えませんでした。
産むのか。
産まないのか。
結婚するのか。
しないのか。
私が仕事をどうするのか。
彼が何を引き受けるのか。
聞きたいことはいくつもあったのに、私は「そっか」とだけ言いました。
帰り道、彼はいつも通り手をつないできました。
その手を振りほどくほど怒ってはいない。
握り返すほど安心もしていない。
だから私は、指先だけ少し力を抜いたまま歩きました。
怖かったのは妊娠だけ、と言えば話はきれいだったと思います。
避妊に失敗して、アフターピルを飲んで、不安な数週間を過ごした。
でも本当は、もっと小さくて言いづらいものが残りました。
自分の体のことなのに、相手の機嫌を気にしてしまったこと。
病院で、ちゃんとした関係だと見せようとしたこと。
薬代を半分だけ頼んだこと。
彼から返信が来ただけで安心したこと。
そして、こんなことがあったのに、私はまだ彼に嫌われたくないと思っていたこと。
そこがいちばん恥ずかしかったです。
服用から3週間後、朝いちばんに妊娠検査薬を使いました。
結果が出るまでの数分、洗面台の隅に落ちていた一本の髪の毛を見ていました。拾えばいいのに、なぜか拾えませんでした。
判定窓を確認したあと、私は深く息を吐きました。
泣くほどではなかったし、飛び上がるほどでもありませんでした。
ただ、冷蔵庫を開けて麦茶を飲みました。
あの朝と同じ味でした。
その夜、彼には「大丈夫だった」と送りました。
彼からは「よかった」と返ってきました。
私も「うん」と返しました。
それで終わるはずだったのに、スマホを伏せたあと、なぜか少しだけ寂しくなりました。
あの3週間、私は何を待っていたんだろう。
検査薬の結果だけだったのかな。
冷蔵庫のモーター音が止まり、部屋が急に静かになりました。
彼との関係は、まだ続いています。
たぶん、続いていると言っていいと思います。
ただ、手をつなぐとき、ときどきあの朝の6時47分を思い出します。






