ブライダルフェアに心が揺れるのは、結婚式がしたいからだけではありません

夕方になってもベランダの手すりはまだ熱を持ち、エアコンの室外機は、もう勘弁してくれと言いたそうな音を立てています。
私は冷蔵庫から麦茶を出し、氷を三つ落として、スマホを眺めていました。婚活アプリを開いたわけではありません。開いたところで、昨日送った「お仕事お疲れさまです」が既読のままなのは知っています。返事のない画面を何度も見に行くほど、私も暇ではありません。……と言いながら、三回は見ました。こういう小さな見栄だけは、夏バテしません。
そのとき、SNSにブライダルフェアの広告が流れてきました。
白いチャペル。天井から落ちるやわらかな光。細いグラスに注がれた泡。笑いながら同じ皿をのぞき込む男女。画面の下には、「豪華試食付き」「ドレス見学」「初めてでも安心」という言葉が並んでいます。
私は結婚が決まっていません。それどころか、次のデートが決まるかどうかも怪しい状態です。それなのに親指が止まり、広告を閉じるでもなく、予約画面の手前まで進んでしまいました。
行く予定なんてないのに。
相手だって、いないのに。
胸の奥だけが、先に会場へ行ってしまったようでした。
年齢にとらわれず、いつまでも人生を楽しみ続けたいと感じる方に「ロンジェビティ」「いつか」が急に日付を持つと、心は勝手に走り出します
婚活をしていると、「いつか結婚できたらいいな」という言葉を上手に使うようになります。
本気すぎると思われたくないときにも使えますし、うまくいかなかったときに自分を守るクッションにもなります。「いつか」ですから、今年でなくても、来年でなくても、まだ嘘にはなりません。
けれど、ブライダルフェアの予約画面は、その曖昧さを静かに許してくれません。
「挙式の希望時期はいつですか」
「招待する人数は何名くらいですか」
「どのような雰囲気をご希望ですか」
まだ相手の名字も知らない私に、未来の季節や人数や花の色を尋ねてきます。そこで心が揺れました。白いドレスに憧れたから、だけではありません。私のぼんやりした未来を、初めて誰かが具体的な予定として扱ってくれたからです。
普段の生活では、未来を細かく聞かれることがあまりありません。
仕事では来月の締め切りを聞かれ、家では電気料金の支払日を気にし、婚活では「休日は何をしていますか」と聞かれます。年収300万円の私は、ドレスのシルエットより先に、家賃と生活費と貯金残高を思い浮かべます。結婚したい気持ちはあるのに、「結婚後はどんな朝を過ごしたいですか」なんて、誰も聞いてくれません。
ブライダルフェアの画面だけが、まるで結婚することはもう決まっていて、残る問題は春にするか秋にするかだけだという顔をしています。
その厚かましいほどの前提に、少し救われてしまうのです。
わかります。まだ何も始まっていないのに、式場の写真を見た瞬間だけ、自分にも続きがあるような気がする夜があります。
自分の人生を疑っている日に、「あなたにも予定されている幸福があります」と先回りされたら、そりゃあ少しは揺れます。心なんて、案外その程度の演出で動いてしまいます。強い意志で立っているつもりでも、実際は、きれいな照明と「花嫁さま」という呼び名に弱いものです。
私も例外ではありませんでした。
登録無料の出会い・恋愛 マッチングサイト/マッチングアプリ【ハッピー】欲しかったのは披露宴ではなく、「隣の席が埋まる未来」でした
広告の中で私が何度も見ていたのは、豪華な料理でもドレスでもありませんでした。
披露宴会場の端に置かれた、小さな丸テーブルでした。
白いクロスの上にグラスが二つあり、椅子も二脚あります。ただそれだけの写真です。ところが、その二つという数が妙にまぶしく見えました。
一人暮らしが嫌いなわけではありません。冷房の温度で揉めませんし、夕食がアイスだけでも誰にも注意されません。お風呂上がりにシートマスクを貼ったまま床に寝転んでも、見ているのは天井だけです。自由はかなり快適です。
それでも、楽だった一日を「今日、ちょっとよかった」と渡す相手がいない夜はあります。つらい話ではなく、わざわざ友人にLINEするほどでもない小さな話です。スーパーで桃が安かったこと。信号が全部青だったこと。カフェの店員さんがカップに小さな笑顔を描いてくれたこと。
大事件を支えてくれる人より、報告する価値もなさそうな出来事を受け取ってくれる人がほしい。そんな本音は、婚活のプロフィール欄には書きにくいものです。
「穏やかな家庭を築きたいです」と入力すればきれいに収まりますが、本当はもっと地味です。
二人分の麦茶を作りたい。
相手が脱ぎっぱなしにした靴下に腹を立てたい。
帰りが遅いと連絡が来たら、「了解」と返しながら、少しだけ安心したい。
結婚式の写真は、その地味な暮らしの入口だけを、とても美しく切り取っています。私が揺れたのは入口の豪華さではなく、その先に誰かの生活音があるように見えたからでした。
もちろん、現実は写真ほど整っていません。好きな人と暮らしても寂しい夜はあるでしょうし、二人になればお金の悩みも家事の偏りも増えます。結婚すれば自動的に孤独から卒業できるわけでもありません。
そんなことは、もう十分わかっています。
わかっているのに、グラスが二つ並ぶだけで泣きそうになる。そこが、人に言いにくいところです。
婚活中の女性は、結婚に憧れていると見られるのも、焦っていると思われるのも、どちらも少し恥ずかしいものです。「別に結婚だけが幸せじゃないし」と言いながら、友人の入籍報告には誰より早くハートを押します。祝福は本物です。でも、その本物の祝福の端に、薄い痛みが混ざる日もあります。
いい人でいたい私と、置いていかれたくない私が、同じスマホを握っています。
ブライダルフェアは、その二人を一度に起こします。祝う側で見慣れていた景色の中央に、自分を置いてみてもいいのではないかと誘ってくるからです。
心が揺れるのは、意志が弱いせいではありません。
誰かの幸せを見送ることに慣れすぎて、自分が迎えられる場面を忘れていたからかもしれません。
業界唯一の審査制を導入。信頼度No.1の既婚者専用マッチングアプリAnemone(アネモネ)あの日、私は「婚約者のいない花嫁」として会場へ行きました
ここまで読んだ方は、私が広告を閉じて、麦茶を飲み干して、そのまま寝たと思うかもしれません。
実は、予約しました。
しかも、「おひとりでの参加も可能」と書かれたフェアを選びました。
もちろん最初は、ブログの取材だから、と自分に言い聞かせました。作家志望のブロガーとして経験しておけば、いつか文章の材料になる。試食もできる。涼しい場所にも行ける。理由を三つ並べれば、無謀な行動も急に企画らしく見えます。
当日、私は白いブラウスにベージュのスカートを合わせ、誰にも会わないのに前髪を巻き直しました。会場の入口には何組かのカップルがいて、男性の腕に自然に手を添える女性を見た瞬間、帰りたくなりました。
受付で名前を告げる声が、自分でもわかるくらい小さくなりました。
案内してくれた女性スタッフは、私の左手を一度も見ませんでした。笑顔で席へ案内し、冷たい飲み物を置き、問診票のような用紙を差し出しました。
そこには「お相手のお名前」という欄がありました。
ペンが止まりました。
見栄を張って架空の名前を書こうかと、一秒だけ考えました。こういうとき、頭の中にはなぜか「健太」が出てきます。全国の健太さんに申し訳ありません。
私は空欄のまま、その用紙を返しました。
スタッフは空欄を見てから、責めるでも、困るでもなく、「今日は、何を確かめに来てくださったんですか」と聞きました。
予算でも日取りでもありませんでした。
私はしばらく黙ってから、「自分が本当に結婚したいのか、見に来ました」と答えました。
口にした途端、恥ずかしくて笑ってしまいました。こんな客、いちばん扱いづらいはずです。新郎はいない、日程は未定、招待人数はゼロ。成約から最も遠い席に座っている女です。
ところが彼女は笑わず、「それなら、今日は決めなくていいですね」と言いました。
その一言で、私は泣きそうになりました。
チャペルを見ても泣かなかったのに、ドレスを見ても泣かなかったのに、「決めなくていい」で涙が出そうになりました。
私はずっと、結婚したいのか、ひとりでいたいのか、早く決めなければならないと思っていたのです。婚活を続けるなら本気で。休むなら潔く。子どもを望むなら急いで。望まないなら人の期待を捨てて。三十代の選択には、いつも見えない締め切りがついている気がしていました。
でも私がブライダルフェアで受け取ったのは、結婚への決意ではありませんでした。
決められないまま未来を見学してもいい、という許可でした。
帰り道、バッグの中には会場のパンフレットが入っていました。家に着いてから開くと、見積書の人数欄には「未定」と書かれていました。
ゼロではなく、未定。
たった二文字なのに、妙にやさしく見えました。
そして、ここからが自分でも予想していなかったことです。
私は婚活アプリを開きませんでした。
代わりに母へ電話をかけ、「ねえ、お母さんは結婚式、したかった?」と聞きました。両親は写真だけの結婚で、私はその理由をきちんと尋ねたことがありませんでした。
母は少し黙り、「本当は白いドレスを着て、おばあちゃんに見せたかった」と笑いました。
私がブライダルフェアで探していた花嫁は、未来の私だけではなかったのです。
若かった母と、母のドレス姿を見られなかった祖母と、誰かの式では上手に笑えるのに自分の願いには鈍いふりをしてきた私。白いチャペルの中で揺れていたのは、まだ会ったことのない新郎への気持ちではなく、家族の中で一度も言葉にならなかった「本当は、祝ってほしかった」という気持ちでした。
結婚式をするかどうかは、今もわかりません。
隣の席に誰が座るのかも、まだ空欄です。
けれど今夜は、その空欄を慌てて誰かの名前で埋めなくてもよい気がしています。大暑の夜、氷の溶けた麦茶を飲みながら、私は「未定」という二文字を、前より少しだけ好きになりました。
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参考サイト
・婚活・結婚に関する意識・実態調査(SMBCコンシューマーファイナンス、2025年)
https://www.smbc-cf.com/news/data/2025/01/news_20250131.pdf
・ブライダルフェアは一人で参加OK?メリットや当日のポイント(ゼクシィ)
https://zexy.net/article/app002101028/
・初めてのブライダルフェアでも大丈夫!参加前にこれだけ読めば完璧(ハナユメ)
https://hana-yume.net/howto/bridalfair-first/
・結婚マーケット調査2025(リクルート ブライダル総研)
https://souken.zexy.net/research_news/marriage-wedding/market.html
・二十四節気・七十二候・雑節カレンダー 2026年7月
https://www.arachne.jp/onlinecalendar/24sekki/

