迷ってるけど、ちゃんと生きてる感覚の話

今朝の空は、冬にしてはやけに白っぽくて、窓ガラスにうっすら残った結露の跡が、昨日の自分の疲れをそのまま保存しているみたいだった。スマホのアラームを止めて、二度寝するほどの余裕はないのに、起き上がるほどの勢いもなくて、布団の端で足先だけを探りながら「今日って、何かいいことあるかな」と思ったふりをしてみる。
キッチンに立って、電気ケトルのスイッチを入れると、薄い湯気が立ち上がって、部屋の空気がやっと“生活”に切り替わる感じがした。いつも通り、いつも通りの朝。だけど、いつも通りって、安心でもあり、怖さでもある。
郵便受けを開けたのは、ゴミ捨てのついでだった。マンションの廊下は寒いのに、誰かの柔軟剤の匂いだけがやけに甘くて、私はその匂いを吸い込んだ瞬間に「私って今、ちゃんと暮らしてるのかな」って、急に聞かれてもいない採点を始めてしまった。
手に取った封筒は、妙にしっかりした紙質で、角がピシッとしていて、生活の中の“公式”っぽさが漂っていた。送り主は、年金。あの、未来の自分にしか関係ないと思っていたやつ。いわゆる、年金定期便。
部屋に戻って、コートも脱がないままテーブルに置いて、しばらく眺めた。封筒を開けるだけなのに、なぜか胸の奥がざわつく。わかってる、ただの通知。たぶん、怖がるほどのものじゃない。なのに、こういう紙一枚が、私の未来の輪郭を勝手に描き始める気がして、勝手に息が浅くなる。
「ああ、私、未来を“未定”のままにしておくのが得意なんだな」って、やけに冷静に思った。
封を切って、数字を見た。これまでの加入期間、これまでの保険料納付状況、そして“このままいくと将来これくらい”みたいな見込み額。数字は静かで、淡々としていて、感情の置き場を用意してくれない。
私は、数字が苦手というより、数字が“決めつけてくる感じ”が苦手だ。未来って、本当はもっと曖昧で、もっと揺れていて、もっと私の気分で変わるものだと思いたいのに、こういう紙は「あなたの未来、だいたいこんな感じです」と、平然と言ってくる。
その瞬間、心の中で浮かんだ本音は、たぶん誰にも言ってない。
「今の私が頑張っても、結局、報われない可能性もあるんだよね」って。
それって、めちゃくちゃ失礼な言い方だし、頑張ってる自分に対しても、未来の自分に対しても、雑すぎる評価だと思う。だけど、その雑さが、今の私の正直でもある。未来が怖いときって、私の言葉はだいたい雑になる。丁寧に考える体力が残ってないから。
だけど同時に、別の声もあった。すごく小さい、でも確かにそこにいる声。
「……でも、今の私、そんなに嫌いじゃないよ」って。
それは、自己肯定感が上がったとか、前向きになれたとか、そういう綺麗な話じゃなくて、もっと地味で、もっと生活寄りの感覚。たとえば、昨日ちゃんと洗って干したタオルがふわっと乾いていることとか、冷蔵庫に卵が残っていることとか、キッチンのシンクが今朝はそこまで荒れていないこととか、そういう“自分が放置しなかった痕跡”を見つけたときの、ちょっとした安堵。
年金定期便の紙をいったん閉じて、私はお湯を注いで、マグカップを両手で包んだ。指先が温まると、気持ちも少しだけ現実に戻ってくる。未来の数字は怖いけど、今の温度は私のものだ。
この感覚、誰かに説明しようとすると急に薄っぺらくなるから、私は黙っていた。
未来の数字が、今の私を小さく見せる瞬間

定期便の数字を見ていると、急に「もっと稼がなきゃ」「もっと安定しなきゃ」みたいな言葉が、心の中に無断で入り込んでくる。誰に言われたわけでもないのに、未来の自分が困る姿を勝手に想像して、今の自分を責めたくなる。
「30歳」って言葉に、世間のラベルが勝手に貼り付いてくるのも、こういうときだ。まだ若いとも言えるし、もう若くないとも言える、ちょうど他人が勝手に判断しやすい年齢。私はその曖昧さの中で、ずっと揺れている。
だけど、数字って不思議で、見ているうちに“今の自分”を過去の集計みたいに感じさせる。これまで払った金額、これまで働いた年数、これまでの積み重ね。
「私は、これだけしか積み上げられてないの?」って、つい思ってしまう。
ここでひとつ、今日の私の違和感が生まれた。数字を見て不安になるのはわかる。でも、数字が不安を呼ぶのは、“数字が未来を決める”からじゃなくて、“数字が今の私を評価してくる感じがする”からなんじゃないかって。
たとえば、私が今日まで生きてきた時間は、紙の上では加入期間とか納付状況とかに置き換えられるけど、そこには、夜中に泣きそうになりながらも朝は仕事に行った日とか、誰にも褒められない努力とか、ちゃんと食べられなかった日とか、逆に何もできなくて布団の中で一日が終わった日とか、そういう“生活の温度”が全部抜け落ちている。
数字は便利だけど、数字の外側にも、私の人生はたしかにある。
……こういうことを考え始めると、私はちょっとだけ安心する。数字に勝てないなら、数字の外側をちゃんと抱えるしかないって、開き直れるから。
不安を“消す”んじゃなくて、“置き場所”を作る
私は昔から、不安を消そうとして失敗するタイプだ。深呼吸をしてみたり、前向きな言葉を探してみたり、誰かの自己啓発っぽい動画を見てみたり(そしてだいたい途中で恥ずかしくなって閉じる)。
でも不安って、消そうとすると、なぜか大きくなる。まるで「ここにいるよ!」って主張してくるみたいに。
今日、年金定期便を見てざわついたあと、私は“消す”のをやめてみた。代わりに、「あ、今、不安なんだね」って、そのまま置いてみた。
置くって言っても、具体的には、紙をすぐ捨てないで、クリアファイルに入れて、棚の端に置いただけ。たったそれだけ。
でも、それだけで少し違った。目の前に出しっぱなしだと、未来がずっと私を見張ってる気がする。でも、しまい込むと、見えない場所で不安が育つ気がする。だから、“見えるけど生活の中心じゃない場所”に置いた。
不安って、意外と居場所がないと暴れる。
これ、恋愛とか人間関係にも似ている気がする。心配ごとを「気にしない!」って押し込めるほど、夜中に変な方向から出てくる。だから私は最近、不安に対して「ちゃんと座ってて」って言うようにしている。
それは不安を肯定することじゃなくて、不安に生活を乗っ取られないための整理。
この整理をしているとき、ふと、自分の中に小さな誇らしさみたいなものが生まれた。
“私は今、未来のことを考えられるくらいには生きている”って。
これも、別に前向きな結論じゃない。未来のことを考えられるということは、未来が怖いということでもある。でも、怖がるってことは、投げ出してないってことでもある。
それでも今の自分が嫌いじゃないのは、生活の手触りがあるから

昼過ぎ、近所のスーパーに行った。特別な理由はない。冷蔵庫にあるものでも生きられるけど、なんとなく外に出たくて、歩いたほうが気分がマシになる気がして。
買うものは、牛乳と、豆腐と、納豆と、安かったみかん。派手さゼロ。未来の不安を吹き飛ばす力なんて、たぶんない。だけど、レジ袋の重みって、私はけっこう好きだ。
あの重みは、「私は今日も生きるために何かを選んだ」っていう証拠になるから。
帰り道、マンションのエントランスで、小さい子どもが靴を履くのに苦戦していて、お母さんがしゃがみこんで「もう、急いでるのに〜」って笑いながら言っていた。私はその横を通り過ぎながら、なぜか少しだけ心がほどけた。
未来の不安って、だいたい“自分ひとりの頭の中”で膨らむのに、こういう他人の生活の音を聞くと、「あ、世界はちゃんと回ってる」って思える。私が不安でも、不安じゃなくても、世界は回るし、人は靴を履かせたり、みかんを買ったりする。
家に戻って、買ったものを冷蔵庫に入れて、手を洗って、ふと鏡を見た。
顔は、特に輝いてもいない。むしろちょっと疲れてる。
でも、私はその顔を見て、「まあ、今日もやってるよね」って思った。
すごく小さい肯定。胸を張るほどじゃないけど、否定するほどでもない。
ここで、今日の私の“ささやかな変化”が生まれた気がする。
未来の不安があると、私は「今の自分」を丸ごと否定したくなる癖がある。でも実際は、未来の不安と、今の生活の手触りは、同じ場所に存在できる。
不安だからといって、今が全部ダメなわけじゃない。今がまあまあだからといって、未来が安心なわけでもない。
その中間に、私たちはいる。
そして、読者のあなたも、たぶん同じ場所にいる。
「不安があるから今を楽しめない」って思いがちだけど、実は“不安があるままでも、ちょっとだけ笑える瞬間”って、ちゃんとある。
——わかる、って思った人、きっといるよね。
夜、部屋の電気を少し暗めにして、ソファに座った。テレビもつけずに、スマホを触るでもなく、ただ、みかんをひとつ剥いた。
白い筋を取るのが面倒で、半分くらい残したまま口に入れて、「まあ、いいか」って思う。
この「まあ、いいか」は、諦めじゃなくて、今日の私がちゃんと生きた証拠みたいなものだと、最近思う。完璧にできない日でも、私は私をここから追い出さない。
それだけで、十分じゃないけど、ゼロでもない。
年金定期便は、棚の端に置いたままだ。
明日また見たら、また不安になるかもしれない。
でも、今日の私は、未来の数字に飲まれきらずに、みかんを剥いて、豆腐を冷蔵庫に入れて、誰かの生活の声に少し救われた。
そういう日があると、「迷ってるけど、ちゃんと生きてる感覚」って、たぶんこういうことなんだと思う。
ねえ、あなたは最近、未来が怖いのに、なぜか今の自分が少しだけ愛おしく見えた瞬間って、ありましたか。
それは、どんな小さな出来事の中に、隠れていましたか。






