朝起きても疲れが取れない日に読む、気分が上がらない私の小さな整え方

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病院で異常なしでもしんどい夜に、名もなき不調と静かに暮らすための言葉

窓辺の女性

朝、目が覚めた瞬間から、今日は少しだけ世界との距離が合っていない気がした。

具合が悪い、と言うほどではない。熱があるわけでもなく、喉が痛いわけでもなく、立ち上がれないほどだるいわけでもない。ただ、カーテンの隙間から入ってくる光がいつもより白っぽく見えて、枕元に置いたスマホの通知を確認する指が、妙に遅かった。昨夜きちんと寝たはずなのに、眠気とも疲れとも違う薄い膜が、頭のまわりに一枚かかっているような感じだった。

こういう日は、かえって困る。

明確に不調なら、まだ扱いやすい。薬を飲むとか、早く寝るとか、人に「今日はちょっとしんどくて」と言える理由があるから。でも、“なんとなく変”くらいの不調は、どこにも提出できない。会社に遅刻するほどではないし、予定を断るほどでもないし、誰かに心配してもらうほどの材料もない。そのくせ、自分の中ではずっと小さくざらついていて、一日のあちこちに細かく引っかかる。

たぶん多くの人が一度は経験しているはずなのに、この感じには、あまりちゃんとした席がない。

頭痛でもない、憂うつでもない、寝不足とも少し違う。気圧のせい、と片づけるには雑だし、気の持ちよう、で済ませるには少しだけ切実。私はこういう日に、自分のことをうまく説明できなくなる。うまく説明できないから、自分でも軽く扱ってしまう。そして軽く扱ったまま夜になると、なんとなく一日じゅう、自分に冷たかった気がして、少しだけ後味が悪い。

今日は、その“うまく倒れない日”のことを書いてみたいと思った。大事件もなく、誰かに傷つけられたわけでもないのに、なぜか小さく削られていく日。元気なふりもできるし、普通にも見えるけれど、内側では静かに噛み合っていない日。そういう日のことを、ちゃんと主役にしたことは、これまであまりなかった気がする。

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コンビニのレジ前で、急に全部がめんどうになった

昼休みの少し前、会社の近くのコンビニに寄った。外は晴れていたけれど風が意外と冷たくて、春の服を着てきたことを少しだけ後悔した。薄手のジャケットでは心もとなくて、でも今さら冬のコートに戻るのも負けた気がする、あの季節の中途半端さ。店内に入ると、温かい惣菜の匂いとコーヒーマシンの蒸気が混ざった、コンビニ特有の少し湿った空気があって、それだけでなぜか一瞬ほっとした。

おにぎりとゆで卵と、いつもの無糖の紅茶を手に取って、レジに並んだ。前にいたのは、たぶん私と同じくらいの年齢の女性で、スーツの上にベージュのトレンチを羽織っていて、スマホと財布とポイントカードをすごく手際よく持ち替えながら会計していた。手元がきれいに流れていて、無駄がなくて、別に見せつけているわけでもないのに、妙に“ちゃんとしている人”に見えた。

それを見た瞬間、なぜだか少しだけ気持ちが沈んだ。

もちろん、その人は何も悪くない。ただ普通に昼を買っていただけだし、たぶん私のことなんて一ミリも見ていない。でも私は、自分が持っていたおにぎりのパッケージの端が少しつぶれていることとか、バッグの中でイヤホンが絡まっていることとか、朝ちゃんと洗ったはずなのに前髪が微妙に決まっていないこととか、そういうどうでもいいことを急にまとめて意識してしまった。

会計の順番が来て、店員さんにポイントアプリの画面を出そうとしたら、スマホの反応が一瞬遅くて、アプリもなかなか開かなくて、その数秒がひどく長く感じた。後ろに人が並んでいる気配だけが背中に増えていく。「あ、すみません」と言いながら画面を探している自分が、ひどくもたついて見えて、嫌だった。

たったそれだけのことなのに、レジを出たあと、私は少しだけ息を吐いた。

“なんか今日、全部へたくそだな”

心の中でそう思った。誰にも言わなかったし、言うほどのことでもない。ほんとうに小さな出来事だと思う。でも、その小ささのわりに、ちゃんと刺さっていた。たぶん、不調の日というのは、なにか大きな問題が起きるからつらいのではなくて、こういう一つひとつの瑣末な場面で、自分の輪郭がうまく保てなくなるから面倒なのだと思う。

昼食を持ってデスクに戻っても、食欲がないわけではないのに、味が少し遠かった。紅茶も、いつもの温度よりぬるく感じた。パソコンの画面を見ながらおにぎりを食べていると、隣の席の人が笑いながら誰かと話していて、その声が明るすぎるわけでも大きすぎるわけでもないのに、今日は少しだけ耳に触った。

こういうとき、自分がすごく狭量になった気がする。人の機嫌のよさにまで、心の表面がざわつく日がある。そういう自分を、私はあまり好きじゃない。

でも、わかる人はたぶんわかると思う。自分が不機嫌なのではなく、世界の明るさに皮膚が薄くなっているだけの日がある。

元気じゃないことより、元気じゃない理由がないことがしんどい

スキンケアをする女性

今日の本音を、少しだけ意地悪に言うなら、私はあのレジ前で、見知らぬ女性に勝手に負けた気がしていた。

たかが会計で、と思う。ほんとうにそう。人生の勝ち負けとコンビニのレジは何の関係もない。そんなことは頭ではわかっている。それでも、人の手際のよさや落ち着きや、さりげない整い方を見たときに、自分の“いまの雑さ”がやけに目立ってしまう日がある。たぶん普段なら流せることが、今日は流せなかった。

本当は少し疲れていたのかもしれない。ここ最近、仕事が特別忙しかったわけではないけれど、細かい確認とか、先延ばしにしていた連絡とか、電気代の支払いとか、洗いきれていないマグカップとか、そういう“放っておくと困るほどではないけれど、確実に自分の中に溜まるもの”が、目に見えないまま部屋の隅みたいに積もっていた気がする。

帰宅して玄関の電気をつけたとき、朝脱いだカーディガンが椅子に半分だけ掛かったままなのが見えて、朝の自分の雑さに夜の自分がため息をつく、あの感じ。冷蔵庫を開けたら、使いかけの豆腐と卵と、賞味期限が今日までの納豆があって、「今日まで」が多いなと思う。別に冷蔵庫の話をしたいわけじゃないのに、こういう日の不調は、なぜか生活の細部に同じ顔で現れる。

誰かに「最近どう?」と聞かれても、「ふつうだよ」と答えるしかない感じ。大きな悩みがあるわけじゃない。泣きたいほどつらいわけでもない。だけど、なんとなくずっと機嫌が悪いスマホみたいに、動きがわずかに重い。タップしてから一拍遅れて反応が返ってくるみたいな、自分の鈍さに自分で疲れる。

しかも厄介なのは、こういう不調って、本人がいちばん軽視しやすいことだと思う。

寝れば治るでしょ、気分の問題でしょ、春先だからでしょ、みんなこんなものでしょ。そうやって自分の感覚を雑にたたんでしまう。もちろん、実際それで薄れていくこともある。でも、うまく名前のつかない不調をずっと「こんなの大したことない」と扱い続けると、自分の中でだけ、小さな未読メッセージみたいに溜まっていく気がする。

私が今日いちばん言いたくなかった本音は、たぶんこれだった。

“ちゃんとしていない自分を見るのに、ちょっと飽きた”

努力不足だとか、怠けているとか、そういう強い言葉ではない。ただ、毎回うっすら整わないままの自分、部屋の隅、返していないメッセージ、ちょっとだけ遅れる返信、なんとなく冴えない顔色、そういう“きちんと悪くはないけど、ちょっとずつ満足できないもの”の集合体に、少しだけうんざりしていたのだと思う。

でも、ここでさらにややこしいのは、そのうんざりしている自分にも、どこかで同情していることだ。よくやってるよ、とまでは思えない。でも、責め切るのも違う。たぶんみんな、見せていないだけで、こういう微妙な自分との折り合いを何度もやっている。立派な悩みじゃないからこそ、言葉にしにくいだけで。

“なんとなく不調”って、体調の話だけではないのかもしれない。自分への雑な失望が、生活のあちこちに薄くしみ出している状態、というほうが近い日もある。

そして、こういう日は、がんばることより、ちゃんと察知することのほうが難しい。

ひと口分だけ、自分を雑にしない

夜、帰ってから、納豆とごはんだけの簡単な夕飯にしようと思っていた。でも炊飯器の残りが少し心もとなくて、結局冷凍うどんを茹でた。キッチンの換気扇の音を聞きながら、ねぎを切る。包丁の切れ味が少し落ちていて、ねぎの断面がきれいじゃない。今日はそういう日だな、と妙に納得する。

不調の日に、いきなり自分を立て直すのは、たぶん難しい。

白湯を飲むとか、ストレッチをするとか、早く寝るとか、そういうことが悪いわけではないし、実際かなり助かることもある。ただ、今日の私には、それを“ちゃんとした対処”としてやる気力が少しなかった。だから、うどんを器に移して、いつもなら立ったまま済ませそうなところを、ちゃんと椅子に座って食べた。それだけだった。

テレビはつけず、スマホも少し離れた場所に置いた。部屋は相変わらず少し散らかっていたし、シンクには朝のコップが残ったままだったけれど、とりあえず一口目を急がずに食べてみた。すると、それだけでほんの少し、体の中に戻ってくる感じがした。

大げさな話ではなく、本当に少しだけ。

たぶん私は今日、「元気になること」より先に、「自分を雑に扱い続けないこと」が必要だったんだと思う。なんとなく不調な日は、回復のために何かを足すよりも先に、これ以上ぞんざいにしないことのほうが効くのかもしれない。無理に明るくするでもなく、励ますでもなく、ただ追加で傷を増やさない、みたいなこと。

明日すぐ真似できるようなことで言えば、たとえば、いつもより五分だけ早く布団に入るとか、コンビニで買うものを一品だけ温かいものにするとか、帰宅してすぐ部屋の大きな照明をつけずに、小さい灯りだけで少し過ごすとか、そういう程度でいいのだと思う。自分を立て直すための立派な儀式じゃなくて、自分への当たりを少しだけ弱くする動き。

不調の日に必要なのは、劇的な改善ではなく、“悪化させないやさしさ”なのかもしれない。

ここでひとつ、今日だけの発見があった。私はずっと、“なんとなく不調”を、元気でもない、病気でもない、中途半端な状態だと思っていた。でももしかすると、あれは自分の感覚が鈍っているのではなく、むしろ少し敏感になりすぎている状態なのかもしれない。音や光や人の手際や、自分の小さな雑さにまで反応してしまう、皮膚の薄い日。

そう考えると、対処の仕方も少し変わる。

鈍い自分を叱るのではなく、今日は反応しすぎる日なんだな、と知っておく。世界が急に嫌な場所になったわけではなく、自分の感覚のほうが今日は薄着なんだ、と考える。そうすると、必要なのは根性ではなく、上着みたいなものなのだと思える。ひとつ予定を減らす、ひとつ返信を明日に回す、ひとつだけ静かなものを選ぶ。そのくらいのことが、案外ちょうどいい。

“なんとなく不調”を、ただの曖昧さとして片づけないで、感覚の薄着の日、と呼んでみる。今日の私には、その言い換えが少しだけしっくりきた。

何も起きていない日のほうが、自分の扱い方は出る

いま、部屋の隅で加湿器の音が小さく鳴っていて、洗い終えた食器はまだ水切りかごの中にある。窓の外はもう暗くて、向かいの建物のベランダの明かりだけが見える。こうして一日を振り返ると、今日は本当に、何かが起きた日ではなかったと思う。嫌なことを言われたわけでも、失敗をしたわけでも、泣くような出来事があったわけでもない。

それでも、たぶん私は今日、自分の生活の手触りを少しだけ違う角度から見た。

大きなトラブルがない日に感じる不調は、見逃しやすい。見逃しやすいのに、じわじわ効いてくる。そして何より、その日の自分をどう扱うかが、そのまま生活の質感になる。うまくいかない日に立派である必要はないけれど、せめて雑に追い打ちをかけないこと。それだけで、夜の自分の顔つきは少し変わるのかもしれない。

わかる、で終わりたくないから、あえて言うと、なんとなく不調な日は“休むべきサイン”というより、“自分に対する手つきが荒くなっていませんか”という通知に近い気がしている。体や心が壊れる一歩手前、みたいな重い話ではなく、もっと地味で、でもたしかに見過ごせない知らせ。

たとえば明日また、レジ前でもたつくかもしれないし、誰かの整った感じに勝手にへこむかもしれない。部屋はすぐには片づかないし、冷蔵庫の中身だって急に美しくはならない。たぶん私はまた、そこまで不幸ではないのに、ちょっとだけうまく生きられない日をやると思う。

でも、そのときに「こんな日もある」で済ませるのではなく、「今日は感覚が薄着なんだな」と思い出せたら、少しだけ違う気がする。無理に元気を装わなくても、派手に落ち込まなくても、自分を雑にしない選択はできる。そういう、小さくて具体的な逃がし方を持っている人のほうが、案外しぶとく暮らしていけるのかもしれない。

何も起きていない日のほうが、自分の扱い方はよく出る。

そしてたぶん、そういう日の積み重ねでしか、人の生活はほんとうには変わらないのだと思う。今日はたまたま、コンビニのレジ前でそれを思い知っただけで、明日にはまた忘れそうな気もしている。でも、忘れそうなくらいの気づきのほうが、案外あとになって効いてくることもある。

名もなき不調は、怠けでも弱さでもなく、もしかしたら、自分の暮らしの中でいちばん先に小さく手を挙げるものなのかもしれない。

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