最近なんだか無理がきかない日に、日本製完全オーガニックのエルゴチオネインが気になった理由

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減っているものは、たいてい静かだ

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今朝、駅の改札を出るとき、私は交通系ICカードじゃなくて、会社の入館証をタッチしていた。

一回目は「あ、間違えた」と思っただけだったのに、二回目も同じものをかざしてしまって、改札の前でほんの数秒、立ち尽くした。後ろに人がいなかったのが救いだったけれど、ああいうときの数秒って、妙に長い。春の気配はあるのにまだ風は冷たくて、薄手のコートの袖口から入った空気が、寝不足でもないはずの体に意外とちゃんと刺さった。

昨日は、早めに寝た。お風呂も入ったし、夜更かしもしなかった。冷蔵庫に残っていたごはんで雑におじやを作って、スマホもいつもより早く伏せて、たぶん世間一般でいう「ちゃんと休んだ」に近い夜だったと思う。それなのに朝の私は、改札と会社の境目も曖昧なくらい、ぼんやりしていた。

こういう小さい不具合って、昔は笑い話で済ませられた気がする。天然だね、疲れてるんじゃない、で終わるやつ。でも最近は、終わらない。笑ったあとに、ほんの少しだけ胸の奥に残るものがある。大げさに言えば不安、でもそこまで強くはない。もっと地味で、もっと扱いにくい、「あれ、私って思っているより摩耗してるのかもしれない」という感じ。

そういう日に限って、やることは普通にある。洗っていないマグカップ、返していないメッセージ、期限が近い支払い、月末の数字、見ないふりをしたい家計簿アプリの赤い表示。生活って、誰かに褒められるほど派手ではないのに、ちゃんとこなそうとすると案外ずっと細かい。その細かさの中で削れていくものは、たいてい音を立てない。

最近知ったエルゴチオネインという成分は、体内で作れない希少なアミノ酸の一種で、きのこや麹菌発酵食品などから摂るしかないとされているらしい。

参考サイトで見かけた「日本製」「完全オーガニック」という言葉より、最初に引っかかったのは、むしろその“自分の中では作れないものがある”という事実のほうだった。原料100%オーガニック、日本国内のGMP認証工場で製造といった商品情報も並んでいたけれど、私はそれ以上に、「足りなくなるものは、努力だけではどうにもならないことがある」という感覚に、妙に現実味を覚えた。

改札の前で、ちょっとだけ立ち止まった

駅を出てから会社までの道は、特別好きでも嫌いでもない。チェーンのカフェの前を通って、ドラッグストアの開店準備の横を抜けて、角のビルのガラスに自分の姿が一瞬映る。その朝の私は、髪も服も一応整っていた。寝ぐせもないし、靴も汚れていないし、見た目だけなら、まあ普通の社会人だったと思う。

でも、改札で入館証を出した瞬間、何かが少しだけずれた。

たぶん、誰に話しても「疲れてるんだよ」で終わる程度のことだと思う。実際そうなのかもしれない。けれど、私はあの数秒が、思っていたより引っかかった。ミスをしたこと自体より、何も考えずにそこまで来てしまったことが、ちょっと怖かったのだと思う。自分の体を運ぶことだけに精一杯で、中身が数歩遅れてついてきているみたいな感じ。

わかる、って大きな悩みにだけ起きるものじゃない。こういう、誰にも言うほどじゃない違和感のほうが、むしろ他人の言葉に救われにくかったりする。

昼休みにコンビニで買ったおにぎりをデスクで食べながら、私はぼんやり朝のことを反芻していた。鮭のおにぎりの端が少し乾いていて、ああいう小さな乾きって、なぜかその日の自分に似て見える。別に落ち込んでいるわけじゃない。限界でもない。でも、ちゃんとしているつもりの自分の下に、見えない疲れが薄く積もっている気がした。

そのあと、参考サイトを開いて、エルゴチオネインの説明を読んだ。体内で作れない希少な成分で、天然の抗酸化物質として注目されていること、きのこなど一部の生物に由来すること、そして研究開発の文脈では「長寿ビタミン候補」としても言及されていること。

正直、そういう言葉をそのまま鵜呑みにするほど素直でもないし、すぐに何かが劇的に変わると期待する年齢でもなくなった。でも、今日の私には、その“足りないものを気合いで内製しない”という発想のほうが、商品そのものよりも先に入ってきた。

私たちはたぶん、何かが減っているときほど、増やすことばかり考える。やる気を出す、予定を詰める、気分転換をする、新しい目標を作る。もちろんそれで回る日もある。でも、今日みたいに改札の前で一瞬止まってしまう朝には、増やすより先に、これ以上減らさないことのほうが大事なのかもしれないと思った。

元気そうに見える日の、言いにくい本音

本当のことを言うと、私は「ちゃんとして見える自分」に、わりと助けられてきた。

遅刻しない、返事をする、最低限の愛想は保つ、体調が悪くても予定はなるべく崩さない。大人として普通のことだし、できるならそのほうがいい。でもその普通に、気づかないうちに少し依存していたのかもしれない。私は大丈夫です、私は今日も回せます、という顔をしていると、自分でも本当にそうだと思いやすいから。

だから、改札でのあの小さなミスが嫌だった。疲れていることより、“疲れていない顔が先に立っていたこと”のほうが、たぶん少しだけ恥ずかしかった。

しかも、そういうときの本音はきれいじゃない。

もう少し丁寧に扱われたい、と思う。誰かにではなく、生活そのものに。朝の電車も、仕事の締切も、ドラッグストアの値上がりしたトイレットペーパーも、なんで全部こんなに当然の顔でこちらに乗ってくるんだろう、と思う。たまに少し意地悪な気持ちになる。ちゃんとしている人から先にすり減る仕組み、あれはあんまり公平じゃない。

でも、そこで「もっと自分を大切にしよう」に着地すると、今日はなんだか嘘っぽい。そういう標語みたいな言葉は、疲れていない日に読むと優しいのに、少し擦り切れた日に読むと急に遠い。自分を大切にする、って、そんな簡単に主語を変えれば済む話じゃない。洗濯物はたまるし、家賃は落ちるし、上司の依頼は待ってくれない。現実は、自己啓発本の帯よりずっと粘ついている。

むしろ今日の本音は、もっと地味だった。

私、ちゃんと休むことを少し舐めていたのかもしれない。

睡眠時間を確保すればいい、湯船に入ればいい、休日に少し寝だめすれば戻る、みたいな発想で、たぶんずっとごまかしてきた。もちろんそれも大事だけれど、摩耗って、そんなに単純じゃない。頭を使ったとか、体を動かしたとかだけじゃなくて、気を張る、期待に合わせる、言わなくていいことを飲み込む、返信の文面を二回直す、そういう目に見えない消耗がじわじわ効く。

誰にも言わなかったけれど、改札の前で私は一瞬、「こういう小さな衰えから始まっていくのかな」と思ってしまった。嫌な想像だし、大げさすぎるのもわかっている。でも、そういう飛躍をしてしまう朝ってある。たぶん本当に怖いのは、老いそのものじゃなくて、自分が自分の変化を雑に扱い始めることなのだと思う。

エルゴチオネインについて読んでいて引っかかったのも、派手な効能より、酸化ストレスとか、加齢とともに減るものとか、そういう静かな言葉だった。ヒトはエルゴチオネインを自前で作れず、研究の文脈ではフレイルとの関連や、長期的な健康維持に関わる可能性が示唆されているらしい。

まだ“期待されている”段階の話も含まれるけれど、少なくとも、体の中には目立たないまま減っていくものがある、という考え方自体は、今日の私にはやけにしっくりきた。

今日だけは、足すより守るのほうを信じてみる

夕方、帰宅して、部屋の電気をつけたときの白さが少しきつく感じた。朝洗えなかったマグカップがシンクにそのまま残っていて、脱ぎっぱなしのカーディガンが椅子の背にかかっていた。生活感って、余裕がある日は愛嬌なのに、ない日は証拠品みたいに見える。

いつもの私なら、そこから「よし、ちゃんとしよう」と立て直しに入る。床のものを拾って、洗い物をして、ストレッチ動画でも流して、せめて部屋だけでも整えて、気持ちまで一緒に正常化させようとする。でも今日は、そこを少し変えてみた。

マグカップは洗ったけれど、部屋全部は片づけなかった。通知の返事も、急がないものは明日に回した。冷蔵庫の中の豆腐と卵で適当なスープを作って、湯気が上がるのをぼんやり見ていた。何かを劇的に改善するためじゃなく、これ以上減らさないための夜にしようと思った。

たぶん私は、元気になる方法ばかり探してきた。でも、元気を失いにくくする方法については、あまり考えてこなかった気がする。

それは、なんというか、少し地味だから。頑張るとか変わるとか達成するとかに比べて、「減らさない」は拍子抜けするほど目立たない。SNSにも載せにくいし、他人にも説明しづらい。でも、改札で入館証を出した朝の私には、その地味さがむしろ信用できた。

参考サイトの商品説明には、日本製で完全オーガニック、1日1〜2粒を目安に摂る設計、60粒入りといった情報が並んでいた。そういう仕様の話を読みながら、私は不思議と“何を足すか”より“何を摩耗させすぎているか”を先に考えていた。たとえば、空腹を我慢したまま作業を続けること。帰宅してすぐ部屋の荒れにイライラすること。

疲れているのに、まだ頑張れるふりをすること。そういう小さな無理のほうが、案外じわじわ効いているのかもしれない。

明日すぐ真似できることがあるとしたら、たぶん大したことではない。帰宅して最初の五分で、部屋全部を立て直そうとしないこと。疲れている日に「せめてこれだけ」と自分を追い込む前に、何を増やすかじゃなく、これ以上何を減らしたくないかを先に考えること。集中力なのか、機嫌なのか、言葉のやわらかさなのか。そこを守るだけでも、夜の手触りは少し変わる。

今日の私にとっての小さな発見は、回復って、必ずしも上向くことじゃないのかもしれない、ということだった。下がりすぎないように手を添えることも、立派な回復の一部なんじゃないかと思った。

たぶん、生活は“回復力”だけで回っていない

こういう話を書くと、最後に何かきれいな結論を置きたくなる。でも今日は、その気分でもない。

改札で入館証を出したことは、明日にはたぶん忘れるような小さな出来事だと思う。実際、それ自体に意味なんてないのかもしれない。ただ、あの数秒の立ち止まりが、私に一つだけ残したものはある。

人って、壊れるときだけじゃなく、少しずつ擦れていく途中にも、ちゃんと目を向けたほうがいいのかもしれない、ということ。

元気がないわけじゃない。深刻でもない。まだやれる。たぶん多くの日はその通りだし、私たちはそうやって日々を回している。でも、その“まだやれる”の上にばかり生活を積んでいくと、ある日ほんの小さなところで、自分の輪郭が遅れてくる。改札で、返信欄で、スーパーのレジ前で、冷蔵庫を開けたまま立ち尽くす台所で。

そういうとき、私は前まで「もっとちゃんとしなきゃ」と思っていた。でも今は、少しだけ順番が違う気がしている。ちゃんとするより先に、減らさない。立て直すより先に、摩耗を深くしない。回復力という言葉は明るすぎる日があるけれど、守る力なら、今日みたいな夜にも少しなじむ。

エルゴチオネインが体内で作れない成分だという話を読んだとき、最初はただの知識だった。でも夜になってから、その知識が別の形で残った。私たちの毎日は、気合いや根性だけでは補えないものの上に成り立っている。そこを認めることは、弱さというより、雑に自分を使い切らないための感覚なのかもしれない。

だから今夜は、部屋が少し散らかっているままでも寝ようと思う。完璧じゃないまま眠ることに、前より少しだけ抵抗がない。明日の私はまた普通に電車に乗って、普通に働いて、普通に帰ってくるのだろうし、その普通の中でまた何かをこぼすかもしれない。

でも、こぼさない人になりたいわけじゃない。

こぼしたときに、何が減っていたのかに気づける人でいたいだけだ。

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