食品消費税ゼロって本当に助かる?家計より先に心がざわついた一人暮らしの買い物時間

朝、カーテンの隙間から入ってきた光が、いつもより白っぽくて、冬の空気は見た目だけは清潔なのに、実際は指先の水分を容赦なく持っていく。暖房のタイマーはセットしたはずなのに、床が冷たいままで、スリッパ越しに「今日の私はちゃんと生きてます」みたいな顔をするのがちょっと難しかった。コーヒーを淹れて、湯気でメガネが曇って、曇りが取れた瞬間にスマホの通知が目に刺さる。ニュースの見出しに、やたら強い言葉が並んでいた。
食品消費税ゼロ、という見出しが台所に落ちてきた
今日(2026年1月20日)話題になっていたのは「食品の消費税をゼロにする」という案。高市早苗首相が、来月の衆議院選挙に向けて、食料品にかかる8%の消費税を“2年間に限って”ゼロにすることを公約として打ち出す(あるいは検討している)という報道が続いている。
しかも、選挙は2月8日投開票の「解散総選挙」になる見通しで、物価高への不満が強い今、税の話が一気に生活の真ん中に出てきた。
「食品が安くなるなら嬉しい」と思うのに、同時に「そんな簡単にゼロって言えるの?」とも思ってしまう。ニュースは、減税の財源がどうなるのか、国の歳入がどれくらい減るのか、金融市場がどう反応しているのかまでセットで語っていて、私は朝の台所でマグカップを握りながら、急にテストを受けさせられている気分になった。
——ここから先は、知識の話より、私の生活の話になる。
今日の「今まであまり触れてこなかった感情」は、たぶんこれだと思う。
【自分の暮らしが“政策の材料”にされることへの、うっすらした気持ち悪さ】。
怒りというほど大きくないし、絶望でもない。ただ、皮膚の上を薄い氷が滑るみたいな違和感が、ずっと残る。
レジで、税の欄を見つめてしまった
昼休み、いつものスーパーに寄った。寒い日に限って野菜が高く見えるのは、たぶん私の心が縮こまっているせいもある。買ったのは、豆腐、納豆、卵、冷凍うどん、カット野菜、ヨーグルト。あとは“ご褒美”のつもりで、少しだけいいバター。
会計を終えてレシートを受け取った瞬間、私は反射的に税額の欄を探していた。ポイント残高でもなく、値引きシールの合計でもなく、税。これ、私の中ではわりと珍しい行動だ。
そして、そこで心の中に浮かんだ、誰にも言わなかった本音がある。
「……私、いよいよ“税”に敏感になる年齢になったのかな。なんか、いやだな。」
お金の話をすること自体が恥ずかしいわけじゃない。むしろ大事。だけど、レジ袋みたいに当たり前に引かれていくものを、いちいち数えてしまう自分が、生活に追われている感じがして、ちょっと惨めだった。
しかも、ニュースの見出しが頭の中でリフレインする。食品消費税ゼロ。もし本当にゼロになったら、このレシートの“税”の行はどうなるんだろう。消えるのかな。消えたら私は軽くなるのかな。それとも、別のところで重くなるのかな。
ここで一回、現実の話を整理しておく。いま話題になっている「食品消費税ゼロ」は、少なくとも現時点では“実施が決まった制度”ではなく、選挙の公約や検討案として語られている段階のものだ。
報道では、食料品の消費税(8%)を2年間止める案が中心で、国の税収は年におよそ5兆円規模減る可能性があるとも言われている。
また、経済効果については、家計の負担が軽くなる一方で、必需品は“買う量が劇的に増える”ものでもないから、景気の押し上げは限定的になりやすい、という分析も出ている。
さらに、政党によって「一時的にゼロ」なのか「恒久的に廃止」なのか、消費税全体をどうするのか、かなり温度差がある。
……って、こうやって言葉にすると、私は急に“ちゃんとした人”みたいになるけれど、本当は、レシートを見つめて立ち止まったのは、政治や経済の理解より先に、もっと小さくて、もっと個人的な感情があったからだ。
「助かる」は本当。でも、胸の奥がザラつく
食品の消費税がゼロになる、という話が出ると、たしかに日々の買い物はラクになる。卵も、牛乳も、米も、パンも、野菜も、みんな食卓の“基本”だから、そこで8%が消えるのは、単純に家計の呼吸がしやすくなる。
私は一人暮らしだけど、それでも「食費は気づくと上がってる」の代表選手で、毎月のカード明細を見て「こんなに食べてないのに…」って小さく腹を立てる瞬間がある。**わかる…**って、言いたくなるやつ。ほんとに。
でも、今日の私が引っかかったのは、そこじゃない。
ニュースを眺めながら、私はふと、「食品消費税ゼロ」が“私の生活を救うための言葉”というより、“選挙の言葉”として先に置かれている感じがしてしまった。
もちろん、政治は選挙のために動く部分もあるし、政策を掲げるのは当たり前だ。それを否定したいわけじゃない。
ただ、日々の買い物の「しんどさ」が、見出しとして加工されて、争点として並べられて、数字の裏側で勝った負けたの話に吸い込まれていくのを見ると、私の暮らしが“材料”として切り分けられていくみたいで、胸の奥がザラつく。
私たちの生活って、そんなに単純じゃない。
食品が安くなれば嬉しい。でも、税が消えたぶん、別の負担が増えたり、社会保障の話が後回しになったり、インフレの中で価格がそのまま下がらなかったり、そんな可能性もある。制度って、きれいに“得した”で終わらない。
それに、私の中には、もっとやっかいな感情がある。
「助けてもらうこと」への、ほんの少しの居心地の悪さ。
私は別に、誰かに養ってほしいわけじゃないし、泣きつくつもりもない。でも、減税や給付の話が出るたびに、なぜか肩をすぼめてしまう。自分の足で立っていたい、みたいな意地なのか、ただの見栄なのか、たぶん両方。
そして今日、レシートの税額を見つめた私は、気づいてしまった。
“自立”って言葉を握りしめている間に、私は「支えられること」を受け取る練習を、あんまりしてこなかったのかもしれない。
私が今日やった、すごく小さな行動

家に帰って、買ってきた食材を冷蔵庫に入れて、凍った指先をお湯で温めながら、私はなぜか、いつもより丁寧にレシートを家計簿アプリに入力した。
しかも、税額の欄を、わざわざメモに書き写した。
自分でも「何してるの?」と思った。たぶん、政策のニュースが、“私の生活にどれくらい触れてくるのか”を測りたくなったんだと思う。自分の暮らしのサイズで、政治の言葉を受け止め直したかった。
それで計算してみると、今日の買い物の食品消費税って、数百円。数百円は大きい。でも、数百円で人生が変わるわけでもない。
なのに、私の気持ちは、数百円どころじゃなく揺れていた。
この揺れの正体は、「損得」より「信用」なんだと思う。
誰が言っているのか、何のために言っているのか、続くのか、途中でやめるのか、その“空気”ごと含めて、私は安心したい。生活の安心って、結局そういうところに寄りかかっている。
大和総研の分析では、食料品の消費税を2年間ゼロにする場合、世帯あたりの負担軽減は年8.8万円程度という試算が紹介されていた。
こういう数字を見ると「やっぱり大きいな」と思う。でも同時に、そこに“年間4〜5兆円規模の財政負担”が必要だという話もセットで出てくる。
結局、私たちは、今日のレシートが軽くなる代わりに、未来のどこかで別のレシートを受け取るのかもしれない。
その未来のレシートが、いつ、誰に、どんな形で回ってくるのかが見えないから、胸の奥がザラつく。
ここまで書いておいて、私はたぶん「減税に賛成です」「反対です」みたいな結論を出したいわけじゃない。
むしろ今日のテーマは、政策の是非より、「生活が、政治の言葉に触れたときに起きる小さな感情」を見逃さないことだった。
今日だけの小さな気づきは、これ。
私は“お金の話”が嫌なんじゃなくて、“お金の話が、他人の都合で急に振り回される感じ”が嫌なんだと思う。
そして、私はその嫌さを、いつもより静かに、レシートの上で確認していた。
夜、うどんを茹でて、カット野菜を炒めて、卵を落として、ものすごく普通のごはんを食べた。
「普通」は、私にとって最高の贅沢でもあるのに、最近はその“普通”が、じわじわ高くなっていく。だからこそ、食品消費税ゼロという言葉が、やけに甘く聞こえる瞬間がある。
でも、甘い言葉ほど、あとから舌に残るものがある。
もし、食品消費税がゼロになる未来が来たとして、あなたはそのとき、レシートのどこを見ると思う?
「得したね」と笑えるかな。それとも私みたいに、消えたはずの何かを探して、ちょっとだけ不安になるかな。
たぶん、私たちは今日も、安心の置き場所を探しながら買い物してる。






